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歴史・文化


おはら祭りの歴史

おはら祭は、市制60周年を記念に作られた祭りで、第1回は、昭和24年11月15日に行われました。
一時期は低調でしたが、36年に現在の「踊り連」方式へと変わりました。
徳島の阿波踊りを手本にし、町内会や職場グループなどが参加し、活性化しました。
従来の市、商工会議所、南日本新聞社中心の商工振興策から「おはら祭振興会」主催の市民の祭りへと変わり、南九州最大の祭りとなりました。

鹿児島市広報紙昭和55年12月第3号には、おはら祭りの歴史が記されています。
昭和48年までのこととなりますが、詳しい推移がのこされています。
広報紙によりますと、おはら祭は、市制60周年を記念に作られた祭りです。
第1回の祭りは、昭和24年11月15日に行われました。
市制60周年に際し、鹿児島にも、長崎くんちや博多どんたくといった、その街をすぐにイメージさせる祭りがほしいとの声から、おはら祭りは生まれました。
戦後初めての提灯行列で幕を開け、呼び物は広告仮装行列でした。
2日目は、市内6ヶ所に設けられた仮設舞台で芸能大会が行われ、トラックの移動演芸隊が各所に出向き、おはら祭の気分をもりあげました。
25日まで協賛大売り出しも行われました。
しかし、当時はまだ物資が不足しており、勝目市長が着たハッピも、消防からの借り物でした。

翌年25年は、伊敷、東桜島村との合併を記念した祭りになりました。

26年はその頃流行の自転車競走なども加え、7日間の予定でしたが、ルース台風のせいで中止となりました。

27年には、おはら節のパレードが登場しました。西郷南洲没後75年記念の祭りと位置付けられていました。

28年は、商工会議所創立60周年と大島復帰を記念して高校マラソンも登場しました。

29年は、春のみずほ祭(農村関係慰安行事)、夏の港まつり、秋のおはら祭が統合され「おいどん祭」と名称を変更しました。
しかし、3つの祭りの関係者の中で、開催時期で意見が分かれたため、結局3年で元のおはら祭にもどりました。

30年は、22号台風で中止となりました。

32年は、元のおはら祭に戻った年ですが、次第に祭りが低調になり、祭りの存続を危ぶむ意見も出るようになりました。
35年には、祭りの主催が変更されました。
従来の市、商工会議所、南日本新聞社中心から、「おはら祭振興会」主催へと変更されました。
おはら祭のパレード1本に絞られましたが、残念ながらまだ盛り上がりに欠けた状態でした。

36年は、おはら祭りが大きく変化した年でした。
この年、徳島の阿波踊りを手本に、現在の「踊り連」方式を取り入れました。
従来のおはら節のパレードといえば、婦人会が中心でしたが、この「踊り連」方式により町内会や職場グループなどからの参加者が急増し、大成功を収めました。
祭りの性格も商工振興策から市民の祭りへと変わり、南九州最大の祭りへの第一歩を踏み出しました。

38年、踊りの曲目にハンヤ節が加わりました。

42年は、明治100年と新市発足を記念した祭りとなりました。
西郷どん行列が登場しました。

43年、祭りの日が11月3日(文化の日)に決まりました。

48年、これまでのパレード方式を、歩行者天国で踊る祭りへと変更しました。
これまでのパレード方式は西駅、鹿児島駅、松方橋の三か所からスタートして照国神社まで踊っていましたが、この年から、高見馬場から朝日通りまでの広い車道が歩行者天国となり、踊りの舞台となりました。