Novel(百物語)
02ten

二人の母

人は、いつ、自分の戸籍を見るのだろう。
誰かに尋ねられたこともないし、これまで自分も他人に尋ねたこともない。
私が戸籍謄本を初めて自分でとったのは、二十五歳だった。
早いのか遅いのか、わからない。
それまでに、私に戸籍謄本が必要なことがあったのだろうか。
あったとしても、たぶん母親が市役所に出向いていたに違いない。

二十五歳になった
時、私には結婚を決めた人がいた。
そろそろまわりにも知らせようと、彼女と相談していたころだった。
私は彼女の父親から、突然破談を言い渡された。
「まだ、君も娘も若すぎる」
指定された喫茶店で、私は彼からそう言われた。
結婚式に関して、彼女の両親の希望でもあるのだろうと、私は呑気に思っていた。
私は驚き、一瞬言葉が出なかった。
「菜緒さんの気持ちですか?」
私はようやく尋ねた。
自分でも情けないほどうわずった声だった。
彼女とは、ここ数日会っていなかった。
私の仕事が忙しすぎたからだった。
ただ、電話はかならずかけた。
寝ているのか、出てくれないこともあったが。

彼女の家で失言したことだろうか。
すぐそう思った。
まさか、こうなるとは思ってもいなかった。
あの日の帰り、駅まで送ってくれた菜緒は、笑って私と手をつないでくれたのだから。

菜緒の父親は、ただタバコを吸っている。
「家内は、君とはあわないな。もちろん、君が家内と結婚するわけではないんだが。」
それは確かに事実だった。

二週間前に、菜緒の家に行った。
正式に彼女の両親に挨拶をした。
それまで、彼女を送っていったことは何度もあったが、結婚となると、勝手は違った。
「菜緒さんと結婚させてください」
彼らに返答はなかった。

私のことばを真剣に受け取ってもらえているのだろうか、私は不安だった。
頭ごなしに拒絶されはしないが、喜んでもらえていない。
私はあせった。
若造が小さな会社の社長になり、乱暴な仕事をしていると思われているのではないか。
私のことは事前に調べているはずなのだが、母親はしきりに私のこと、私の家のことを聞いてくる。
まるで尋問のようで、私はだんだん不快になっていった。
「菜緒は大したこともできませんが、大丈夫かしら」
質問の最後に、母親は私に訊いた。
「確かに、菜緒さんは、私より何もできませんね。でも、私自身も大したことはありませんから、 釣り合いがとれているように思います」
「おかあさんの年齢になるころには、菜緒さんは もっといい女性になっていると思いますよ」
言わなくてもいいことを、私は口にした。
ブレーキがきかなかった。
仕事のできる夫、気立てのいい娘、豊かな経済状況、そういう恵まれた環境にいながら、傲慢さを感じさせる美しい中年の女性に、私はどこか苛立っていたのだ。
私の好きな菜緒は、確かに母親のような美人ではない。
しかし、思いやりがあり、明るく賢い女性だった。
わざと娘を卑下してみせるのは、たぶん女性としての当たり前の行為だったのだろうが、私は若すぎた。
自分自身を美しいと認めていそうな母親は、眉を吊り上げ、私を睨みつけた。

「仕事とは関係ないからな。君に不利になることなどしない」
父親はそう言って、席を立った。
菜緒と会う前から、彼の会社は私の重要な顧客だった。
全く知らなかったのだが。
「菜緒は本当に悩んでいたんだ。あいつを責めないでくれ」
最後に父親はそう言った。
一人っ子の菜緒は、母親がどうしても認めない男との結婚に二の足を踏んだのだろう。
何もかもが順調に思えていたのに、私は自分の失言ですべてを失ってしまった。
自分の愚かさをどれだけ呪ったことだろう。
その後、一回だけ、菜緒は私に手紙をくれた。
せつないほどに優しい手紙だった。
「私が悪いんです。あの時、母を止めるべきだったのに。本当にごめんなさい。」
私は菜緒に会いたかったが、それだけは彼女は許してくれなかった。
「あんな母親でも、菜緒は好きなんだ。」
そう思うと、悔しかった。
そしてうらやましかった。

「自分が貰い子だからなんだ。」
私はそう思った。
思うようにした。
そう思うと、菜緒を失った辛さが紛れた。
「どんなに頑張っても、馬鹿にするんだ、あいつらは。」
考えてみれば、おかしな話だ。
私は菜緒に、自分が貰い子だとは言っていない。
やはり恥ずかしかったのか、私は最後まで口にしなかったのだ。
「どこの馬の骨ともわからない奴なんか、嫌いなんだろう、菜緒のおふくろは。」
あの時、私はそう思った。
嫌味な母親なら、私の家庭まで調べているに違いない。
「養子と書いてあるのだろうか、戸籍には。」
急に気になって、私は喫茶店を出た足で、市役所に向かった。
戸籍謄本を見て、愕然とした。
菜緒のことを、一瞬忘れるほどだった。

私は貰い子なんかではなかった。
実母は、私が二歳の頃にいなくなっていた。
後に、私が母だと思っていた人が、父と再婚していた。
母が口にしたひと言で、私は自分を貰い子だと思い込んでいたのだ。
私は混乱した。

高校生になったころ、おふくろがこっそり私に言った。
「あんたは貰い子だったのよ。」
おふくろが期待するほどの表情を、私は見せなかった。
「やっぱりな」
そういう気持ちだった。
悲しくもなかった。
感情の起伏の激しいおふくろにうんざりしていたから、親子でないとわかって、逆にほっとした。
「黙っていてごめんね、でも、いつか分かることだから」
おふくろは私の顔をまじまじと眺めた。
「どうでもいいさ」
私はそう言って、立ち上がり、部活に出かけた。
たしか、夏休みだったような気がする。
ちょうど思春期の頃だ。
両親それぞれに対し、うっとうしい思いを抱く時期だった。
平気ではないにしろ、自分がもっと自由になった気分にもなった。
「こんな家、捨ててやる」
感謝も何もなかった。
あの時、なぜ私は親父に尋ねなかったのだろう。
「男のくせに、自分から口にしないのか」と。
そう言えば、本当のことがわかったのに。
虚勢を張っていたが、あの頃の私はやはり辛かったのだろう。
本当の親なんて、聞きたくもなかった。
そうやって、私は自分を独りだと思い込み、大学に進学し、就職した。
就職したものの、すぐに退社し、起業した。
数年後、おふくろは死んだ。
菜緒との結婚もなくなり、その年、私は久しぶりに盆休みをとった。
菜緒と会えないなら、日曜日など必要なくなった。
ずっと働きづめだった。
おふくろの墓参りに行こうと思ったのだ。
おふくろのことを、親父に尋ねるためでもあった。
「なぜ、おふくろは嘘を言ったのだろうか。」
仕事をしていても、どこか気になっていた。
電話で親父に尋ねるのは、憚れた。

電車で約二時間、実家は少しも変わっていなかった。
夕食後、親父はビールを飲みながらテレビを見ている。
独り暮らしだから、いつもの習慣なのだろう。
話を切り出すのに、苦労した。
「おまえは、あいつの話が妙だと思わなかったのか。
案外おまえも抜けているんだな。
昔の子どもたちは、一度は親から言われているもんだ。
お前は橋の下で拾ってきたって。
腹が立つとき、親はひどいこと言うもんさ」
テレビを消して親父はそう言った。

「おまえが貰い子なら、とっくにまわりから漏れていただろうよ。
世の中、そんなにやさしくはない。
かあさんのことを嫌味に言う人もあったんだがね。
おまえは気付かなかったんだな。
かあさんはやかましいところもあったが、おまえのことを、それは自慢していたよ。
貰い子というのは、たしかにたちのわるい冗談だが、おまえなら、本当かどうか確かめる知恵ももっていただろう。
かあさんがあの頃おまえにそんなことを言いたくなるくらい、おまえの反抗期も人並みにあったということさ。
おまえは賢かったから、その分、理詰めで攻撃されると、たまらないところはあったからな。
かあさんはきつい面もあるが、その反動か、やたらに反省する。
あたしはとんでもないことを言ってしまった、拾ってもらったのは私なのにと、泣き出したことがあってね。
なだめるのに困ったもんだった。
これからお前にいろんなことを吹き込む親戚がいるだろうよ。
乞食のような女を拾ってきた、と。
昔な、幼いお前を連れて、私は港近くの旅館に泊まったんだよ。
そこでかあさんに会った。
今はさびれているが、あそこも当時はにぎやかだった。
お前の母親は私から逃げて行ってしまうし、私も、もうなんだかうんざりしていた。
お前を捨てるわけにはいかないと思っていたつもりだが、それだって怪しい。
今もそうだが、あの港の近くは砂浜もいいが、岩場もいい。
なんだか自棄気味になっていて、私はおまえを連れて遊んでいたんだ。
かあさんは港にいつもいた。
ぼろを着て、乞食に見えた。
今考えると、乞食に見せるほうが、危なくないと考えていたんじゃないかな。
かあさんは賢かったからな。
女だから何されるかわからない。
汚く臭い乞食女は嫌われるが、安全だよ。
毎日岩場に行って遊んでいるうちに、私はかあさんと親しくなった。
おまえもかあさんになついた。
「この子は、とんでもない子だ」
そう言いながら、かあさんはよく笑ってたよ。
かあさんとおまえが岩場で遊ぶのを見るのが、いつしか私には楽しみになった。
うちに来てくれと頼んだのは、私だ。
かあさんはおまえにひどいことを言ったが、俺だっておなじさ。
本当のことを言わなかったからな。」
ビールは気が抜けてまずかった。

菜緒と別れてから、もう二十五年経った。
つまり、貰い子の顛末がわかってから二十五年ということだ。
不思議なものだ。
二十五歳の私からちょうど折り返した分だけ、私は生きてきたのだ。
それを思い出させたのが、菜緒の父親の会社の買収だった。
二十五歳の若造が、二十五年であの大きな会社を買収するまでになったのだった。
買収した会社は、実態はさほど大したことはなかったのだが。
それでも、世間に不える影響は大きかったようだ。
私の会社ではなく、買収された会社の特集記事はいくつかあった。
ひと段落したころだったろうか、菜緒の父親から連絡があった。
時間を作ってもらえないか、という電話だった。
偉ぶったところがない。
しかし、有無を言わさない。
二十五年前と少しも変わらない。
いくつになっても、私は彼を超すことはないように思える。

二人、煎茶を静かに飲んだ。
タバコを吸った。
「まだ吸っているんだね」
菜緒の父親は、静かに笑った。
「あのときは、君に申し訳ないことをした。
もう、家内はなくなったから、こういうことを伝えてもいいように思ってね。
あの頃、家内を独裁者と思ったんじゃないかな、君は。
菜緒が、なぜ君よりも母親を取ったんだろうと、恨んだことはよくわかる。
私は、菜緒が家出でもしてくれればと思ったでも、菜緒はそうはしなかった。
当人がしないのに、親が勧めるわけにはいかない。」
父親は私をじっと見た。
「菜緒の母親は、菜緒を産んだ時に死にましてね。
そのあとは、私の母が面倒を見てくれていた。
しかし、母も年だったから、赤ん坊の世話で疲れたと思う。
母が寝込んで入院し、菜緒が小学生に入った頃、我が家はめちゃめちゃだった。
私は仕事に忙しい。
菜緒はかわいそうに、小学一年生になったら、もう主婦だった。

家内は、私の秘書だったんだ。
美人で有能で、引く手あまたさ。
私も何度も、部下や取引先から恋の橋渡しをさせられたもんだ。
彼女は、私の私生活を知っていた。
菜緒の体の具合が悪い時、会社から家政婦紹介所に電話しているのも知っていた。
あの頃は、ベビーシッターなどほとんどなくてね。
家政婦の中には、子どもの相手は嫌ですと言う人もいた。
菜緒が嫌う人は、次は頼めない。
私は、仕事が忙しくて家に帰れない。
母は病気が重くなるし、子どもよりも、死にそうな人が最優先だ。
私にお手伝いさせてくださいと彼女が言ってくれたのが、始まりだった。
家庭に閉じ込めさせてはいけない人だったのに、私が彼女にすがりついたんだ。
本当に助かった。
菜緒もなついてくれてね。
ようやく普通のこどもになれたんだから、嬉しかったんだろうよ。
「お母さんはきれい」と、心から喜んでくれたよ。
たしかに、彼女は欠点もたくさんある。
私や菜緒が我慢しすぎだと、忠告する親戚もたくさんいた。
しかし、私がどうしていいかわからずに不安な時、彼女が我が家を切り盛りしてくれた。
菜緒があんなにいい子に育ったのは、私はやはり彼女のおかげだと思っている。
残念だったよ、君が私の息子になれなかったのは。
君が家内とやりあっただろう。
家内は君のことは嫌いだったが、私と菜緒はそうじゃなかった。
「やっぱり菜緒が好きになった奴だなあ」
こっそりそう言ったら、菜緒は笑っていたよ。
菜緒が結婚した相手も、結局家内とはうまくいかなかった。
間に立って、菜緒は苦労したようだ。
家内が倒れて、菜緒はしょっちゅう病院に来てくれた。
遠いから来なくてもいいと言っても、あの子は来てくれてね。
結局、結婚はうまくいかなくなってしまったが。
こんなに遅くなってからいう言葉ではないが、私と菜緒は、家内が後妻だということにこだわってしまったような気がする。
案外、君ひとりが家内と対等にやりあったのかもしれないな。
好敵手だったんだがな。
買収されたなんて、家内が知らなくてよかったよ。
君に何を言うかわからない。」

菜緒に会いたい、そう思う。
私は結局独身を通した。
菜緒も、離婚しているようだ。
会おうと思えば会えるのかもしれない。
菜緒と、互いの母親のことを話したいと思う時がある。
その気持ちは本当だ。

しかし、行動には結び付かない。