Novel(百物語)
02ten

日常の風景

「ひがし、頼みがあるんだけどさ」
四課の伊達課長がそばに来て、困った顔で私にそう言った。
私はパソコンの画面から目を離し、伊達の顔を黙って見上げた。
近くに座っている新入社員が、混乱した顔で私を見ている。
彼女がびっくりする理由が、私にはよくわかる。
私は、「東」という名字ではない。

「一緒にランチはどう?」
さえない中年女性が、会社で一番人気がある部長から誘われているのを、回りは驚いた顔をして見ている。
もう、この年になると誰も気がつかないが、彼と私は同期だ。
同期という以外には、彼とは全く接点がない。
「わかった、お昼になったら受付の前で」
そういうと、私は再びパソコンの画面に顔を向けた。
ビジネス文書にしては珍しい、複雑な構造の英文を訳している最中だった。
「サンキュー」
そう言うと、伊達は去って行った。

近くの高級中華料理店に、伊達は私を誘った。
考えてみれば、このあたりは料亭、隠れ家的なフランス料理店等々たくさんある。
昼休み、食事にはでかけるが、どの店も、私には縁がない。
「用件は?」
席に座るなり、私は彼に尋ねた。
「人事からクレームが来ているんだ。
新人教育係が仕事をまともにしないんだよ」
「わかるように話してやって、仕事をさせればいいじゃない」
「そううまくいけば、ひがしに頼んだりしてないよ。
下手に言うとパワハラになるし、俺なんかセクハラになるかもしれない。
ここは女性の力を借りたいんだ。頼むよ」
入社してもう二十五年になる。
同期会だって、ここ十年以上開いたことはない。
すれちがっても挨拶すらしないのに、頼みごとの時は、伊達は入社当時の私のあだなをぬけぬけと口にする。
だから、同期で一番出世するのかもしれない。
腹が立つ前に感心してしまう。
自分も年をとったものだとつくづく思った。
あるいは、病院からこの町に戻ってくることができたおかげで、許せることが多くなったのかもしれない。

伊東園子が私の名前だ。
学生時代のあだなは「いとうえん」。
会社に入ったら、同期に「いとう」が三人もいた。
男がひとり、女がふたり。
男の伊藤は「いとう」と呼ばれ、女の伊藤は「いとうさん」とよばれ、「伊東」の私は「ひがし」になった。
「いとうさん」はとっくに退職し、いつのまにか、私が「いとうさん」と呼ばれるようになった。
同期の中には、「ひがし」と呼ぶ者も少しだけ残ってはいるが、伊達から「ひがし」と言われたのは初めてだ。

「新人係の制度は、以前からあるじゃない。今までの経験が上司にもあるでしょ」
「前はまともだったんだよ。今の子は、自分が教えてもらうのはいいけれど、後輩を教えるのは面倒らしいんだ」
「去年の新人係からの引き継ぎが、うまくいってないだけじゃないの?」
「だからさ、それも含めて、ひがしにやってもらいたいんだよ。
人事も困っていてさ。辞めたいっていうのまで、いるんだ」
「伊達さんのところなんでしょ、問題が起きているのは。
人ごとのように言わずに、まずは新人係を呼んで、冷静に注意すればいいじゃない。」
「俺が言えば、ことが大きくなる。女性のことは女性が関わったほうがうまくいくんだ」
「ご冗談を。ことが大きくなったほうがいいんじゃないの?
若い人を育てられない上司のほうが問題なんじゃない?」
「ひがし、お願いだからさ。頼むよ」
伊達にしては珍しく、低姿勢で頼んでくる。
高級な背広を着た洒落者だけに、私への依頼のギャップが情けなくなる。
こんなことを頼める部下くらい、普通はいそうなものだ。
いや、案外、伊達にはいないのかもしれない。
部下を育てるひまがあったら、自分だけ、いいとこどりをする男だからこそ、伊達は出世したのだ。
私は黙々と食事をする。
「ひがしだけなんだよ、こんなこと言えるのは。
かっこつけてるのはわかってるよ」
今度は、泣き落とし作戦で伊達は頼んでくる。
しつこい奴だ。
「いいかげんにしなさいよ、ひがしひがしって。私は伊東です」
「そ、そうだよね、伊東さん」
思わず私は笑ってしまった。
辛い状況を理解してくれたかと思ったらしく、伊達は急に元気になった。
「伊東さんが困ったことがあったら、俺がなんとかするからさ。
頼ってよ、伊東さん。仕事もだけど、まずは、もっと女らしくならなくちゃ。
もともとはきれいなんだからさ」
調子に乗りはじめたのがわかりやすい男だ。
「なんか色気がないんだよね、もったいないよ」
「そうね、このあいだ卵巣も全部とったから、女らしくないよね」
私は静かにそう言った。
伊達は顔色を変えた。
「ごめんごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。
手術したの?大変だったね。知らなくて。」
「いいのよ、伊達さんはそんなつもりもこんなつもりもない人だから。
自分が困った時、頼れる人を探せる能力がある人なのよ。自分は困った人を助けないけどね。
いいわよ、やってあげるから。あとで、詳細をメールで送って」
伊達は見事に嬉しそうな顔をした。
これまでの私なら、絶対やらなかったことだ。
同期の中で、どちらかというと嫌いな伊達を手伝ってやるなんて、我ながら不思議だ。
伊達がその後、何を言ったのか、私はひとつも聞いていなかった。
ランチはたしかに美味しかった。
ただし、年に一回くらいでいい。
店を出たところで私は伊達にランチの礼を言い、ひとりで会社に戻った。
一緒に歩くつもりはなかった。
伊達のように速足で歩けないのを、見せたくなかった。

翌日から、私の仕事に、新人教育係の面談が加わった。
人事部までが、私に礼に来た。
よっぽど困っていたのだろう。
伊達の課の新人教育係は、確かに、言われた仕事をまったくしていなかった。
しかし、誰も面と向かって注意していない。
話をしてみても、彼女が反省しているとは思えなかった。
「あの子、暗くて、一緒にランチする気になれないんですよね」
と、可愛い顔で私に言う。
彼女がやるべきだった業務内容を一緒に確認していると、急に黙ってしまった。
最初は、私の話を聞いているのかと思ったが、どうも様子が違う。
「これって、私の本来の仕事ではありません」
口をとがらして、私を見る。
とんでもない新人を押しつけられ、困っているというような口ぶりだった。
「あなたも新人の時、教育係にお世話になったんじゃないの?」
と聞くと、
「うーん、憶えていないんですよね」
と言う。
「伊東さん、もういいですよね。
今日のランチ、予約しているから、時間に遅れたくないんです」
真顔で私に言った。
「ほんとに食べることに熱心なのね、働く以上に」
そういって、私は笑った。
「またあとでね。面談はまだ終わっていないから」
「えーっ、まだやるんですか?」
私は彼女の言葉を無視した。
次回の時刻を指定し、私は彼女を解放した。
部屋を出て行く彼女を見送りながら、私は入院生活で出会った看護師を思いだしていた。
何人もの看護師が私の世話をしてくれた中に、
いいかげんな仕事をしているなとわかる看護師がひとりいた。
彼女ひとりが私の担当だったら、そういうものだと思い、私も気がつかなかったかもしれない。
どこの世界にも、せっかくの自分の仕事をなおざりにする人はいるものだ。
他に自分のやるべきことがあると思っているのかもしれない。
実は、そこまでもなくて、ただ、面倒なだけかもしれない。
私の病気が軽かったら、たぶん、私はあの看護師に腹を立てていただろう。
病院のベッドにいるころは、会社に復帰できるなんて考えもしなかった。
だからこそ、あの可愛い顔をした、いいかげんな仕事ぶりの看護師を、
ふだんの自分とは違った気持ちで見ることができたのだろう。
自分がこの世から消えるのだと思うと、彼女に対して腹も立たず、
ただ、花に飛んできた虫を観察するような眼差しで見ていたに違いない。
並行して、新人にも会った。
辞めたいと人事部に訴えたのは、別の新人だったようだ。
いい加減な教育係に悩まされたものの、伊達の課の新入社員は、どうにかやっていけそうなタイプに思えた。
会って話すたびに、若々しい彼女の笑顔が増えていくのを見るのは、私も嬉しかった。
どうしようもない先輩に悩まされるのは困ったことだが、だからといってそれにつぶされるのも芸がない。
新人の曽根さんは、運よく当人自身に力があるようで、私は気が楽だった。
人に仕事を押し付ける伊達のおかげで、私は別の部署の新人と知り合う機会をもらえたようなものだ。
私は彼女を、ランチを数回誘った。
伊達とは違い、私のランチは近くの喫茶店のオムライスくらいだ。
ただし、この町の喫茶店は、マスターも味がある。
あの芳町芸者が半玉だったころは、本当に可愛かったなどと話してくれるのだから。
たしかに、どんなに年をとっても、そのおばあさんは思わずふりむくほどにきれいな人だった。
谷崎潤一郎の住居跡の碑がそばにある喫茶店ならではの話だ。
「伊東さん、体、大丈夫?」
食後のコーヒーを運んできた白髪のマスターが、私を気遣ってくれた。
「ありがとうございます。どうにかまだ生きてます」
私は答えた。
「具合、悪いんですか」
心配そうな顔をして、曽根さんが聞いた。
「年を加えると、いろんなところが具合が悪くなるものよ」
「伊東さんは、まだ全然、年取ってないですよ」
「ありがとう、でも、そうでもないのよ」
心優しい新人に、私は感謝する。
この店のコーヒーは、本当においしい。
近くの、できたばかりの立ち飲みの店のコーヒーも悪くない。
私が一番好きなのは日本茶なのだが、それを出してくれるのは一軒しかなかった。

ちっとも反省しない教育係の名前を、私はなかなか憶えられない。
伊達から頼まれた用件は、一応、新人の曽根さんが仕事に慣れたら、それで役目は終わったようなものだ。
だれも、教育係の彼女のことなど気にしているわけでもないのだ。
当人が思っているほど、彼女に本来の仕事が回ってくることはなさそうだ。
彼女の名前は轟木といい、私はそれをパソコンのデスクトップの端に入れておいた。
憶えるまでは、飾っておこうと思ったのだ。
名前を憶えるだけでもいい。
曽根さんと違い、私もそんなことくらいしか彼女にしてやれない。
そう思っていたのだが、意外なところに接点があった。

会社の帰り途、私は路地裏の豆腐屋に寄った。
この町には、名前の知られた店が数軒ある。
テレビの町歩きなどで有名な豆腐屋ではなく、
店の小ささも雰囲気がいかにも豆腐屋といった店が、私の家に近い。
少し変わっているのは、壁に、値段表だけでなく、
料亭や料理屋の名前と豆腐を取りに来る時刻が書いてある紙が貼ってあるところだ。
こちらの豆腐屋のほうが、値段も安く、種類も多い。
味もこの町で一番いいと私は思っている。
私だけの感想でないという証拠が、壁に貼ってある店の名前の数だろう。
私はその日、油揚げと好物の紫蘇豆腐を買った。
豆腐屋を出ると、店の向かい側のイタリアンレストランの前に轟木さんが立っていた。
「あらっ」
と私が声をかけるのと、
「先輩はここで買うんですか?」
と彼女が訊ねたのは同時だった。
「今夜はイタリアンなの?」
私が尋ねると、彼女は頷いた。
「叔父が近所に住んでいて、おごってくれるんです。
先輩、豆腐なんか買って帰って大丈夫なんですか?」
「私の住まいも近所なのよ」
私がそう言うと、轟木さんはびっくりした顔をした。
「こんな所に住んでいるんですか?」
「だって、あなたのおじさんだって住んでいるんでしょ」
「まあ、そうですけど・・・。
前にぼろアパートに住んでいるって言ったから」
私は笑った。
素直な子だ。
「ぼろアパートというよりは、古いマンションというべきだったかな。
仕事が忙しくて帰りが遅くなったころ、思い切って会社の近くに越して来たのよ」
轟木さんは信じられないような顔をして、私を見る。
こんな都心の、それも昔からの賑やかな町に、私のような地味な女が住んでいるわけがない。
彼女の心の中が透けて見えそうだ。
曽根さんと二才しか、変わりはないのだから、
社内で新人という言葉がつかなくなっただけで、まだまだ可愛らしい若い女性なのだ。
「じゃあね」
私がそう言うと、轟木さんは子どものように手を振った。
憎めない子だ、そう思った。
豆腐を下げている私は彼女と違い、手を振るわけにはいかなかった。

私は歩きながら、轟木という文字を頭に浮かべた。
私の大家が以前、土地の筆界で揉めていると私に愚痴をこぼしたことがあった。
問題の隣家が、たしかその名前ではなかったか。
世間は案外せまいものだと、豆腐の入ったビニール袋を提げて歩きながら、私はそう思った。
この町に住んで、もう十年以上経つ。
同じ額の家賃を払うなら、少し都心から離れるだけで、
二倍の広さの新築のマンションに住めるのに、と知り合いは誰もが反対した。
郊外の新築のマンションに住まなくても、都心にこだわるなら、
住んでいると言うだけで羨ましがられる場所はいくつもある。
私が選んだのは、そのどちらでもなかった。
会社に近い、ただそれだけだった。
実は、私はこの町が好きだった。
以前は、着物を扱う店が五百軒以上もあったという。
私が入社したころは、風呂敷屋もあった。
着物が入っているのだろうと思われる大きな風呂敷包みを抱えた男性が、通りを歩いていた。
袴をつけた白足袋の男性を目にした時は、思わず立ち止まってしまった。
私にとっては、舞台以外では、それまで見たこともない光景だった。
入社したのは証券会社で、これまた、全く知らない世界だった。
五十を目前にして、入院、手術と体力を落とし、
それでも仕事を続けられるのは、通勤というよりは散歩に近い至近距離に住んでいるからに他ならない。
自分の選択が正しかったのを、私は身をもって知ったのだった。

長く働き続けてきたのに、病気になるまでは、会社は私にとって、給料を払ってくれる場所でしかなかった。
仕事は性にあっていたが、会社勤めが自分の本来の場所ではない、とどこか思っていた。
教育係として合格点をだしていない轟木さんが「私本来の仕事」
と口にした時、どちらかというと私は驚いたのだった。
大した趣味もないのに、私は、どこか仕事以外にもっと自分を満たしてくれるものがあると思い込んでいた。
それが、入院生活で変わった気がする。
病院は新しく、窓からの眺めも最高だった。
私のマンションより快適な生活だった。
しかし、ぼんやりベッドで過ごし、日が暮れるのを眺めていると、何よりも憧れたのは、会社に行くことだった。
自分でも驚いた。
仕事が終わって家に帰り、夕食を食べて寝るという日常に、私は戻りたくてたまらなかった。
会社人間なんて、古めかしく、時代遅れにちがいないが、
習慣としての日常があるというのは、なんとありがたいことだろう。
台所に立っているときよりも、デパートに買い物に行くときよりも、
会社に行くことが私にとって心の安定になっていたなんて、自分でも信じられなかった。
ということは、退職した人間にとって、行き場所がなくなるのはさぞかし辛いことに違いない。
日常からおさらばするというは、退職すること以上だった。
自分がこの世に生きていることを、私はいつか、手放さなくてはいけない。
病気のおかげで、私は窓から空を眺め、いろんなことを感じ、また、この町に舞い戻ってきた。

豆腐屋の前にあるイタリア料理店は、支店で、近くに本店がある。
六年ほど前に、路地裏に、青い日よけのある小さな店が現れた。
店は青い色が主役で、日よけだけでなく、店員のTシャツも、青と白の横じまだった。
確か、店の名も、イタリア語の青という単語だった。
ナポリ名物のビザが売り物で、特製の窯のなかに、
ボートのオールのような木べらでピザを入れて焼き上げる。
生地が軽く、これまで知っていたピザとは違った美味しさがあり、私も何度か楽しんだ。
あっという間に人気が出て、そのうち予約も取れなくなり、少々残念だった。
しかし、さほどその店に執心してはいなかったのだろう。
支店ができたのを知らなかったのだから。
轟木さんは、ナポリのピザが好きなのだろうか。
あの子なら、何枚でも食べそうだ。
叔父さんに上手にねだって連れていってもらうのだろう。
曽根さんを誘ってみようか、ふとそう思った。
彼女が私に話してくれた田舎の祭りのことを、もういちど聞いてみたくなった。
曽根さんの家は、代々、祭りで演じられる田舎歌舞伎の化粧の担当らしい。
「祖父が引き継いで、今は母が助手をしているんです。私も習っているんですよ。
小さいときから、祖父が役者さんの顔を作っているのを見るのが楽しくて。
たぶん、来年あたりから、母が独り立ちするはずです。祖父はもう体力的に無理で。
次は私が助手になります。伊東さん、
ぜひ、見に来て下さい。うちの田舎のお祭り、とっても楽しいんですよ」
曽根さんの故郷である新潟と山形の県境に、自分は足を運べるだろうか。
残念だが、私にその機会があるとは思えない。
時間はもうなかった。
しかし、曽根さんの話だけでも、私には十分満足だ。
もう一度、彼女に祭りの話をしてもらおう。

曽根さんを誘う前に、また、伊達が私のところにやってきた。
「ほんと、助かったよ。お前、教育係も上手に励ましてくれたみたいで」
彼の言うことはよく理解できなかったが、
伊達が人事部からクレームがこなくなったのは確からしい。
「おごるよ、今度」
「大丈夫、もう結構よ」
「冷たいんだから」
そう言いながらも、礼はもう終わったとばかりに、
伊達は私の近くの女性たちに軽口を叩いて行ってしまった。
私も以前より、伊達を毛嫌いしていない。
きっと、これが日常の風景なのだろう。
ここが私の生きた場所、私はあたりを見回す。
「誰か、さがしているの?」
どこかで、そんな声が聞える。
そう、もうしばらくしたら私の椅子に座る人の姿を、私はさがしているのだろう。